はじめまして。
≪脱・毒親人生 パワースポットマインドセラピー≫
心理セラピストの みどり です。
私は28年間、国家公務員として大組織の一員として働いてきたシングルマザーです。
現在は国家公務員を退職し
主に親子関係に関することでお悩みの方々に寄り添う
心理セラピストとして活動しています。
なぜ私が国家公務員という超安定職を手放してまで心理セラピストになったのか
そこには私のこれまでの波乱の半生が大きく関係しています。
アダルトチルドレン・愛着障害だった自分と向き合い
意図せず毒親になってしまっていた自分を手放したことが
息子の不登校の解決へとつながりました。
私が経験してきた様々な出来事が
きっと皆さんのお役に立てると信じています。
とはいえ、セラピストとの相性は重要です。
文章からでも私の人となりを知っていただきたいと思っています。
皆様のお悩み解決のヒントになることもあるかもしれません。
ここに辿り着いてくださったあなたの直感を信じて
長文になりますが、私の半生を詳細に記したプロフィールを
このまま読み進めていただけましたら幸いです。
詳しいプロフィール
動画でもご確認いただけます。
※長いため1.5~2.0倍速でのご視聴がオススメです。
改めまして、心理セラピストの みどり です。
私はこれまでずっと
”なぜ私は普通の平凡な人生を歩めないのだろう”
と思いながら生きてきました。
私が幼い頃に望んでいた人生は、20代前半で結婚し
専業主婦として夫を支えながら子育てをし
温かい幸せな家庭を築く良妻賢母になることでした。
しかし、実際の私の人生はなぜか波乱万丈で
自分の理想とは全く違うものになってしまいました。
性別を間違えて生まれてきた私/生きづらさの原点①
生い立ち
1974年、兵庫県神戸市で父方の祖父母とサラリーマンの父、美容師の母そして私と妹の6人家族の長女として生まれました。
生まれたばかりの私を見て祖父が
「つけてくるものを忘れて生まれてきたな」
そう言っていたそうです。
これは、私が物心がついてきた頃に母から笑い話として聞かされたことです。
だからといって、私が男の子でなかったことで祖父から嫌な顔をされたことも
嫌味を言われたこともありません。
むしろ、初の内孫として可愛がってもらっていました。
女性性を否定する生き方の始まり
それなのに、なぜか私は男の子でなければならないと思うようになり
スカートを履かなくなりました。
5歳年上の従兄の古着をもらって自ら男の子の服装をしていました。
ショートヘア―だったこともあり
私のことを知らない人が見ると必ず男の子と間違えられていたくらいでした。
そして、女の子がするような遊びもしませんでした。
男の子と同じようにウルトラマンや仮面ライダーごっこをして遊ぶような子供でした。
また、女の子の見るアニメなどにも全く興味がありませんでした。
私が好んで見ていたのはデビルマンやバビル二世など男の子が見るようなアニメばかりでした。
とにかく幼い女の子が好むようなことは「あえてやらない」
そんなあまのじゃく的な行動を無意識にしている子供でした。
近所に一人っ子でお嬢様のようにいつも可愛い服を着て
長い髪をきれいに束ねてもらっていた幼馴染がいました。
その幼馴染と遊んでいるとなぜか無性に腹が立ち
髪の毛を強くひっぱるなど、嫌がらせばかりして泣かせてしまっていました。
当時は、幼馴染のことが嫌いなわけじゃないのに
なんでこんなにムカムカするのだろうと思っていました。
きっと本当は、女の子らしい可愛い服が着たい!髪も伸ばしたい!そんな願望があったのに
私にはそれが許されないと勝手に思い込んでいたから幼馴染が羨ましかったんですよね。
この私の勝手な思い込みが、この後の私の人生に大きな影響を及ぼしていくことになります。
母と過ごした記憶が欠落している幼少期/生きづらさの原点②
祖父母に育てられた私
私には両親と枕を共にして眠った記憶がありません。
なぜなら、私が1歳のときに妹が生まれたからです。
まだおむつもとれていない手のかかる私と生まれたばかりの妹の二人の育児。
それを母一人がするのは大変だろうと考えた祖母の優しい気遣いによって
私の育児は祖母がほとんど引き受けるという状況になったのです。
同じ家に住んでいながら、私は祖父母の部屋で寝起きする生活となりました。
いつも思い出すシーンがあります。
「おやすみなさい」
と1階の居間に布団を敷いて妹を真ん中に寝かせた父母にあいさつした後
祖母に手を引かれながら2階の祖父母の部屋に行くというシーンです。
こんな日常が小学校を卒業するまで続きました。
だから、当時はそれが当たり前になっていて、疑問すら持ちませんでした。
妹への嫉妬と劣等感
でも、毎日無性に妹には腹が立ち、いつもイジメて祖母に叱られていました。
今思えば、両親を妹に奪われたという思いが
妹に対する嫉妬や劣等感になっていたんだと思います。
繰り返し思い出されるこのシーンには
本当は寂しかった
父母の真ん中で寝ている妹が羨ましくて仕方なかった
なんで私はここで寝てはいけないの?
こんな思いが潜んでいたんです。
でも、それが当たり前の日常だと自分に思い込ませることで
この寂しさを感じないように感情に堅く蓋をしてしまったのです。
そのうえ、共働き家庭で、昼間も祖母が私と妹の面倒を見てくれていました。
つまり私は、日常のほとんどを祖母と過ごしていたわけです。
父母との思い出
父と母の休日も別々でした。
父は土曜日の午後と日曜日が休みでしたが、母の休みは月曜日でした。
父とは妹と3人で山登りをしたり、海水浴に行ったり
休日の度にどこかに出かけていた記憶がありますが
母とはそんな記憶がありません。
両親と妹の4人で揃って出かけたのは
お正月とお盆に母の実家に帰省する時だけだったように思います。
母とこの頃どんなふうに過ごしていたのか…
実は、全くといっていいほど覚えていません。
母に抱っこしてもらったり、手をつないで歩いたりした記憶もないのです。
母との関係性
そのせいか、私と母との間には目に見えない壁が存在しています。
母と子でありながら、お互いどこか遠慮しあっている
そんな関係です。
この母との関係が私のその後の人生における人間関係に大きな影響を及ぼしているなんて
思いもしませんでした。
母とたとえ希薄な関係であっても、仲が悪いわけでもない
だから親子関係に問題などない
そう思っていたくらい、私にとってすべてが当たり前のことでしかありませんでした。
そもそも、当たり前のことだと自分で思い込んでいたことが
実は、母に甘えたいのに甘えられない寂しさを隠すためのまやかしだったんですね。
ただひたすら我慢していただけ
そして私の心に芽生えてしまったのは
私はどうでもいい子
私は愛されていない子
私は可哀想な子
という両親(特に母)に対するハートブレイク
大きな無価値感を抱くことになった原点といえるかもしれません。
暗黒の学生時代/小学生編
超自立の道を選んだ私
自我が芽生え始めた10歳の頃
”早く親元を離れて独り立ちしたい!こんな家にはいたくない!”
そう強く思うようになりました。
それからの私はどうやったら早く家を出られるかということばかりを考えるようになりました。
そこには、そう思わないと生きていけないくらい、私にとっては辛いだけの日常がありました。
私の性格を決定づけたいじめ
小学校4年生の時に私は理不尽ないじめに遭いました。
クラス中の女の子からほぼ1年間無視され続けるという陰湿なものでした。
ある朝登校するなり
「Aちゃんが今日からあんたのこと無視しようってみんなに言ってたで。
早よ謝った方がええで。」
とある友達がコソコソと私に耳打ちして去って行きました。
そしてAちゃんが登校してくると、みんな示し合わせたように私と話をしてくれなくなりました。
私は原因がわからないのでAちゃんに直接聞きますが
「わからんのやったら考えたら?」
と突き放され、わけのわからないまま一日を過ごしました。
その日の夜、そろばん塾で同じクラスの女の子が理由を教えてくれました。
どうやら、体育の授業でドッチボールをしたときに私がAちゃんにボールを当ててしまったことが
原因のようでした。
でもドッチボールってそういう競技ですよね?!
意味がわかりませんでした。
結局よくわからない理由でしたが、とりあえず次の日Aちゃんに謝りました。
するとAちゃんが
「明日からは○○ちゃんを無視するから」
と言うのです。
これもまた意味がわかりませんでしたが
別にAちゃんに従う必要はないと思ったため、次の日も普通に〇〇ちゃんと話をしていたら
その翌日から、また私が無視のターゲットになっていました。
いじめのターゲットにされてしまった理由
それでようやく気が付きました。
Aちゃんは自分が一番でなければならないのだと。
自分に従わない子、目障りな子をいじめるのだと。
だからといって私には非がないのにAちゃんに謝って許してもらうというのが納得できません。
私が謝らないため、無視が続くという結果になりました。
ただ、無視したい相手が他にできたときだけ
それまで私を無視していた友達が話しかけてきて
無視のターゲットになっていた子がAちゃんに謝ると再び私が無視される
そんな日常になりました。
自分の殻に閉じこもって耐え忍ぶ日々
女の子にありがちな構図ですが、年中無視されているわけですから
学校に居場所なんてありません。
教室ではうつむいているしかなくなりました。
休み時間にトイレにすら行けませんでした。
みんながいるところに行くのが怖かったからです。
だから恥ずかしいけどおもらしするよりマシだと思い
ギリギリまで我慢して我慢できなくなったタイミングで授業中にトイレに行かせてもらう
ということを繰り返しました。
そして私についたあだ名は
『ネクラ』
とにかく辛く悲しい毎日でした。
家に帰った後、祖母に心配をかけないように
毎日こっそり隠れて泣いていました。
誰も頼りにできない。
助けてもらえない。
自分で何とか耐え続けるしかない。
絶対負けない!学校では絶対泣かない!
そう決めて学校に通い続けました。
親にすら頼れなかった苦しみ
いじめられていることは、親にも話しませんでした。
心配をかけたくなかったからというよりも、話したところで無駄だと思っていました。
両親が私にどう言うか想像がついていたからです。
きっと父は
「そんなもん、やられとらんと、やり返せ。情けない!」
と言うでしょうし、母は
「そんなのは一時のことよ。知らん顔しとけばいい。」
と言うに決まっていると。
私のために親が先生に話に行ってくれたり、Aちゃんの親に会ってくれたりするわけがない。
そう思っていました。
だから頼りませんでした。
実際母から小学校6年生の時に
「4年生の頃のあなたの様子がおかしかったのは気づいていた。
でも自分に起こった問題は自分で乗り越えるしかないから知らん顔していた。」
そう言われました。
やっぱりね…
失望するというよりも、両親に学校でいじめられていたことを話さなくて正解だった。
そう冷ややかに思ったことを覚えています。
見て見ぬふりをする無責任な担任の先生
担任の先生も頻繁に私が授業中にトイレに行くことを不審に思わないわけはないと思うのですが
私に何も聞いてはくれませんでした。助け船を出してはくれませんでした。
私の異変に気づいていながら見て見ぬふりをし続けた感じでした。
だから、私は学校の先生という存在も一切信用しなくなりました。
大人になっても心の痛みが消えないトラウマ
そしてこの経験は私のトラウマになりました。
女の子の集団が怖い
周囲の目が気になる
自分の悪口を言われている気がする
誰も信用できない
人に心を開くことができない
学校という場所には夢も希望もない
私は”独りでも大丈夫”と自分に言い聞かせることで
心のバランスをかろうじて保っていました。
だから周りの人を寄せ付けない雰囲気を作り出してしまったのかもしれません。
両親に否定され続けた結果…
両親に対して背を向けたのもこの頃です。
父の口癖は「あかん」と「考えとくわ」でした。
関西で「考えとくわ」は、はっきり断りづらいときに使う言葉です。
つまり「あかん」と同じです。
父は、私が欲しいもの、私がしたいことのほとんどすべてに反対しました。
なぜ欲しいのか、なぜやりたいのか、理由を聞いてくれることもありません。
何か言うと即座に否定され、取り付く島もない、そんな人でした。
母も父にいつも同調するだけです。
子供の言うことを聞いてやってほしいと父に頼んでくれたこともありません。
そしていつしか私は両親が大嫌いになりました。
両親には何を言っても無駄
私のことなんてどうせ理解してもらえない
理解しようともしてくれない
どうせ私なんて生まれてこなければよかったんだ
どうせ私はいらない子なんだ
妹がいればそれでいいんだ
私なんか生きている意味がない
こんな家、早く出たい
毎日、毎日、心の中で叫び続けていました。
なんで私はこんな両親の元に生まれてきてしまったのだろう。
こんなふうに自分の不幸を呪い、嘆いていました。
暗黒の学生時代/中学・高校編
厳しい行動制限
中学生になると私は父と会話をしなくなっていました。
話すだけ無駄だと感じていたからです。
母のことも益々嫌いになっていました。
中学生になってもお小遣いもなく
門限も成人する20歳までは午後6時だときつく言われていました。
門限に遅れて帰宅してしまったときに
父がゴルフクラブを持って玄関に仁王立ちして私を待ち構えていたことがありました。
あまりに怖かったので以降は逆らうこともできませんでした。
だから、ものすごく行動が制限されていました。
自分の貯金さえも自由に使えない日常
母に言われることに関しても理不尽に感じていました。
例えば、中学に入るときに購入しなければならない制服などの費用を
私の貯金から出すように母に言われました。
私の貯金といっても小さい頃からお年玉やお盆にもらう親戚からのお小遣いを
強制的に貯金させられていただけのものです。
「お年玉を遣わせてもらえなかったのは、このためだったのか」
そう思いました。
お年玉を貯めていた通帳は私が管理するようにと渡されたので
お小遣いをもらえない分、これは使っていいのだと思っていました。
しかし、自由に使えるわけではなく
母から現金出納帳を渡され、入出金を記録するように言われました。
そして毎月1回、現金出納帳と財布の残高を母にチェックされました。
母から見て無駄な出費と思われるものがあれば叱られるのです。
だったらお金を使わない方がマシですよね。
箱入り娘?!
「箱入り娘」だとか「厳しい親だった」とか
そんな言葉で片付いてしまうようなことかもしれませんが、
こんなに制限があったら学校が休みの日に友達と遊ぼうにもお金がないため遊べません。
花火大会やお祭りといった夜にあるイベントには門限の問題もあり、行けません。
好きなアイドルやアーティストのコンサートやライブなんて当然無理です。
その時にしか経験できない貴重な体験のほとんどを諦めざるを得なかったのです。
広く浅くの友達付き合いしかできなくなっていたとはいえ
遊びに誘ってくれる友達もいたのですが、そのほとんどを断るしかありませんでした。
私は益々孤独になりました。
悲しくて、悔しくて、
自分を信用してくれない
両親を恨みました。
理不尽すぎる父
高校受験の時も父は理不尽極まりない言動をしました。
志望校を決める三者面談の日
母が来ると思って廊下で待っていると
父がやって来ました。
仕事を休んでまで学校に来ることなどなかった父が来たことに驚きつつ嫌な予感がしました。
案の定、父は開口一番
「私立は受けさせません。すべり止めなんて無駄なお金を出す気はありません。
うちは公立一発勝負でいきます。
合格するであろう高校を受けるということで。
万が一落ちた場合は浪人させるだけです。ほな先生、あとはよろしゅう頼みます。」
とだけ言って帰ってしまいました。
納得できない
私には寝耳に水の話です。
そもそも私が目指している高校がどこかということすら親から聞かれてもいないし
私も話していませんでした。
高校すらも私の行きたいところには進学させてもらえないのだと絶望しました。
担任の先生も唖然としていましたが
とりあえず私立の受験ができないのであればと、私の成績と照らし合わせて
本来ならチャレンジできたはずの希望していた高校から2ランク下げた高校を受験するよう提案されました。
私にはその提案は到底受け入れがたいものでした。
その日から必死で考えました。
私が進学したいと思える学校で、父も納得するであろう高校を受験する方法はないものかと。
苦肉の策
そして、苦肉の策を思いつきました。
それは、普通科にこだわらないということでした。
普通科にこだわらなければ、まずは推薦でその学科を受験し
もしダメだった場合は不本意ながら担任の先生に薦められた高校を受験するという方法です。
早速、担任の先生に推薦してもらえるかを確認しOKをもらってから
父に話をし、承諾を得ることができました。
でも、その代償として大学進学をほぼ諦めるしかありませんでした。
私が推薦での受験を決めた学科は高校卒業後に就職する人がほとんどのため
授業内容も専門的なことを学ぶ時間が多く
大学進学を目指すためには普通科と同じ勉強をどこかでする必要がありました。
でも、父が塾など行かせてくれるはずもありません。
私は高卒で働く道をここで選択するしかなかったのです。
高校生になっても制限された生活に変わりはありませんでした。
ただ違ったのは、周りの同級生に比べると少ない額ではありましたが
お小遣いがもらえるようになったことくらいです。
ですから自由に使えるお金が欲しくて
学校に内緒で年末年始だけ郵便局のアルバイトに励みました。
勤務時間も遅くても5時までですから父もこれは反対しませんでした。
生きるモチベーション
こんな日常でしたから
本当に自分がしたいことが何なのかを考えることもなく
両親から反対されずに家を出るための最短ルートを見つけて突き進む
いつしか、ただそれだけが私の生きるモチベーションになっていきました。
そして、両親から認められるためには優等生でなければならない!
そんなふうに思うようになっていきました。
弱い自分に鞭を打ち続けた公務員時代/強い女の誕生
助けてが言えない私
高校卒業後、1年間のフリーター生活を経て国家公務員になりました。
職種は税務職です。
現在は女性職員も増えましたが、当時はまだ圧倒的に男性の職場でした。
職種からもわかるように、人から喜んでもらえる仕事内容ではありません。
それでも国にとって大事な仕事であるという信念のもと、仕事に従事していました。
ですが、電話や窓口で罵声を浴びせられることも日常茶飯事です。
「女じゃ話にならないから男の人を出して」
と同じ女性に言われてしまうこともありました。
こんなとき、私は内心、助けてほしいと思いながらも助けを求められませんでした。
手を差し伸べようとしてくれる人がいても
「大丈夫です」
と気丈に振る舞ってしまうのです。
気弱な自分をごまかして生きる
そこには一人でも大丈夫な強い女を演じてしまう自分がいました。
だから「辛い」「苦しい」「助けて」と言いたくても言えず
何でもないように振る舞い
平気な顔をしながら
本当はものすごく怯えていたり、焦っていたりしていました。
自分では意識していませんでしたが
強い女を演じることで承認欲求を満たそうとしていたのです。
こんな私は、近寄りがたい人と思われがちになり、いつも孤独を感じていました。
クールな姐御
人から頼られることはあっても
人を頼ることができない
人に甘えることができない
希薄な人間関係しか作れない
常に孤独がつきまとう
そんな生きづらさをずっと抱えながらも
本当の自分の感情から目を背け、感情を感じないようにして
割り切って生きるようになっていきました。
そしていつしか、私の職場でのイメージは
”クールな姐御”
そんなふうになっていました。
つまり「無表情で近寄りがたくて怖い感じのする人」
と初対面の人からは思われていたようでした。
苦手な女性のタイプ
一方で、私のできないことを簡単にできてしまう女性を見ると無性に苛立つ自分がいました。
それは
素直に人に甘えられる女性
弱さを隠さず人前で泣ける女性
そんな女性が好きになれませんでした。
人前で泣くなんてあり得ない!
泣きたければ隠れて泣きなさいよ!
女を武器にするな!
そう感じていました。
また、こうも思っていました。
「だから女はダメなんだ」
と言われてしまうのが悔しくて私は自分に鞭打っているのに
こういう女性がいるから認めてもらえなくなる、と。
でも、本心は自分がしたくてもできないことができる女性が羨ましくて嫉妬していたんですよね。
人間の感情というのは面白いものです。
本心を隠すために怒りという二次感情で自分をごまかすのですから。
そしてその根底には幼少期に思い込んでしまった
「自分は男の子でなければならなかった」
という思いが潜んでいて
女性らしく振舞うことに無意識に抵抗を感じていたのだと思います。
恋愛と結婚生活/自己犠牲と依存
うまくいかない恋愛
恋愛も、いつもうまくいきませんでした。
尽くしても、尽くしても、捨てられる
そして報われない
いつもこのパターンの繰り返しでした。
誰かを好きになり振り向いてほしくて片思いしているときは
好意を持っているということを
相手だけでなく周りの人たちにもわかるくらい
わかりやすい言動を無意識にしているのですが
相手が振り向いてくれた途端に嬉しいけど不安になるのです
不安ばかりが心を襲う
お付き合いを始めると、その不安は益々大きくなります。
私のことを本当に好きなんだろうか
ずっと好きでいてくれるのだろうか
嫌われたらどうしよう
というような不安が私の心を支配するのです。
そしてその不安を拭い去りたいために
相手の気持ちを確かめたくなって何度も同じことを聞いたり
相手の気持ちを試すようなことをしてしまったり
相手の言うことを何でも聞いてしまったりして
必要以上に尽くしてしまうのです。
恋愛のパターン
そのうえ私が好きになる男性は、なぜかギャンブルとお金の問題がつきまとう人ばかりでした。
幸いお付き合いしている段階で借金を肩代わりさせられる
というようなことはありませんでしたが
開店前からパチンコ店に並んで一日中パチンコをするだけというのが定番のデート
といったようなことは普通にありました。
パチンコをするだけのデートなんて嫌だと思っていても
相手が望むことに反対して嫌われるのが怖いためNOと言えないのです。
”嫌われたくないから自己を犠牲にして尽くす”
”自分のことを好きだと言ってくれる唯一の人だからこそ依存して執着してしまう”
自分には価値がない
自分に自信がない
だからこのくらいしないと愛してもらえない
という幼いころからの思い込みのせいでこのような恋愛を繰り返してしまっていたのです。
結婚後の暮らし
ただ、なんとなくこのような恋愛パターンにならなかったのが結婚した夫でした。
夫が私よりも6歳年下だったということもあったのかもしれません。
結婚を機に、私は住み慣れた関西を離れ、愛媛県で暮らすようになりました。
夫以外に知り合いなど全くいない土地での生活でしたが
何かと気遣ってくれる優しい夫がいてくれたことが心強くもありました。
とはいえ、人柄は良くても一緒に生活してみると次第に嫌なところが目につき始めます。
生活習慣の違いによるつまらない夫婦喧嘩をすることが増えはしましたが
それなりに幸せな生活ができていると思っていました。
ところが、その幸せは長くは続きませんでした。
危険な夫
夫が「運転免許を取得する時の費用を親に肩代わりしてもらっているから返したい」というので
毎月二人の給料の中から少しずつ積み立てていました。
積み立てを始めて半年くらい経った頃
そろそろ目標額になっただろうと通帳の残高を確認すると0になっていたのです。
通帳を預かっていたのは私ですが
口座開設時の印鑑は夫が仕事でも使用していたものを使っていたため
夫にも容易に引き出せる状況でした。
夫に確認すると、パチンコ代として使ったと言います。
開いた口が塞がりませんでした。
なぜなら、夫が職場の付き合いでパチンコをすることは知っていましたが
私とのデートでパチンコに行ったりしたことはなく
ギャンブルにのめり込むタイプではないと思っていたからです。
ですが私の予想は大きく外れていました。
パチンコで作った負けはパチンコで取り返す
そんな、ギャンブル依存に近い考え方をする危険な人だったのです。
夫本人が親に返済したいというから貯めていたお金です。
使い込むなんてどういうこと?ありえない!
私は夫を強く非難しました。
でもこれは、この後長く苦しめられる金銭問題の始まりに過ぎなかったのです。
借金苦の始まり
預金の使い込みからそんなに月日も経たないうちに夫から次はこんなことを言われます。
「職場の先輩が人事異動で転勤することになった。
実はその先輩には50万円借りているから転勤する前に返済したい。」
預金を使い込んだことを責めたら今度は先輩から借金?!
と思いましたが、そんな大金を貸してくれるなんておかしいと内心怪しんでいました。
とはいえ、夫がどこかから借金をしているのは間違いない感じがしました。
結婚生活が脅かされないようにするには返済するしかないと考え
私が独身時代から積み立ててきた預金で肩代わりしました。
信じられない夫の行動
それからしばらくは、そのようなことはなく
結婚3年目でようやく第一子を授かりました。
しかし、すぐに自然流産してしまいます。
流産の兆しがあったその日、私は職場で無理をしたのです。
私のせいだと自分を責め続け
言葉にできないくらいショックを受けていた私の目の前で
夫は誰かと頻繁にメールのやり取りを繰り返していました。
このとき、夫の気持ちはこのメールのやりとりをしていた女性にあり
私が泣きじゃくっていることを、この女性にわざわざ報告していたんです。
自分が情けなくなりました。
何のために結婚したのか、と。
「離婚」という文字が頭に浮かびましたが
結婚した以上はどんなことがあっても女は耐え忍ぶもの
そんなふうに祖母に躾けられていた私は夫がどうしたいのかを確認しました。
すると「離婚はしたくない。この女性には今後連絡しない」と言うので許すことにしました。
束の間の幸せ
ほどなくして、次の子を授かりました。
今度は用心に用心を重ねて妊婦生活を送りました。
夫も協力的で、この頃が結婚生活の中で一番幸せだったかもしれません。
ますますエスカレートする夫の借金癖
臨月を迎えるころ
目が点になるような金額の借金を夫がしていることがわかりました。
その総額約1000万円。
どうやらワンクリック詐欺に引っかかったことがきっかけで
意外と簡単に借金できてしまうということを知って
借金を返すために別のところで借金をするという自転車操業状態に陥っているようでした。
ですから夫本人もどのくらいの借金を抱えているのかすら把握していませんでした。
もしこの事実を知らずにいたとしたら…
と考えると恐ろしくて仕方ありません。
生まれてくる子供を守れるのは私だけ
もう子供が生まれるという時期に離婚とかそんなことを考える余裕もなく
怒る気力も失せてしまうほどの金額にめまいがしました。
呆れてものが言えないとはこういうことをいうのだと思いました。
変に冷静に対処している私がいました。
”お腹の中にいる子供を守らなければ”
その一心で
生まれてくる子供のためにも借金はすっきりさせておかなければと考え
私は自分の預貯金などをかき集め800万円ほど工面し
残り200万円は月々きっちり私が生活費の中から返済していくことにしました。
もう二度とこんなことはしないという夫の言葉を信じて…
父親になった自覚のない夫
ところが息子が生まれてからも夫の借金癖は変わりませんでした。
それどころか一回にする借金の額はむしろ増えていきました。
息子の養育にかかる今後の費用を考えると
もうこれ以上借金を返済するためのやりくりなどしていられない
そう思うようになっていきました。
裏切られた期待
だから、もし次に借金していることがわかったら離婚すると夫に最後通告しました。
家庭を壊したくないと夫なら考えて自制してくれると期待しての最後通告でした。
ですが私の期待は見事に裏切られてしまうのです。
もうダメだ…
私の中でかろうじて繋がっていた夫との糸が切れた気がしました。
絶えない夫婦喧嘩
その日以降、私は夫の顔をみるとイライラし
ケンカ腰の対応しかできなくなってしまいました。
夫と自分の洗濯を一緒にすることすらも嫌になっていきました。
でも息子のためには離婚しない方がいい気もする。
私は毎日毎日、葛藤していました。
そんなある日、ケンカ腰の対応しかしない私に夫がついにキレました。
大喧嘩に発展し、夫が軽く私の肩を押しただけだったのですが、
私が勢い余って尻もちをついてしまった途端、
息子が大声で泣き叫びました。
離婚を決意した瞬間
そして私の前に立ち、夫から私を守ろうとしたのです。
まだ、たった3歳の幼い子が私を守ろうと必死に泣き叫びながら
「パパ、やめて~!」
そう言っている姿を見て心が決まりました。
私と夫が仮面夫婦を続けることは、やろうと思えばできました。
息子のためにそういう選択をすることも可能でした。
でも、両親が不仲であることを感じながら息子が育つのは果たして良いことなのか
いや、絶対よくない
父親から引き離してしまうことで息子は寂しい思いをするとは思う
だけど、形だけの笑顔のない家庭で育つよりマシなはずだ
そう思いました。
夫も自分が蒔いた種です。
私の気持ちを尊重し、離婚に応じてくれました。
親権についても争うこともなく、息子を私に託してくれました。
借金生活からの解放
結婚して9年。
ようやく、自分を犠牲にして夫の借金を返済し続ける生活から解放されました。
夫との恋愛は自己犠牲と依存とは無縁だと思っていましたが
結局、私はずっと自分を犠牲にすることで
夫との生活、息子と3人の生活を守るためというもっともらしい理由を付けて
借金の返済をし続けることで、自分の存在価値を認めてほしかったのだと今は思います。
毒親化していく私/地獄へのカウントダウン
シングルマザーデビュー
息子と二人の生活が始まりました。
息子は本当に生まれた時から手のかからないお利口さんでした。
夜泣きも、おもらしもしない
保育園に預けても泣きわめくこともない
保育園の卒園式では園児代表に選ばれ
小学校でも息子の周りにはいつもたくさんのお友達がいて
成績優秀、スポーツ万能でリーダーシップもある優等生でした。
離婚してからは誰にも頼らず一人で何もかもを背負い込んでいた私にとって
息子に手がかからないという状況は本当にありがたいことであり
たとえ片親でも自分の子育ては間違っていないという安心感を得ることができていました。
失っていく心のゆとり
でもそれは、表向きのことであり
息子が小学生になってからは、職場での待遇も変わり、時間に追われる日々。
私はどんどん余裕がなくなっていきました。
とにかく息子を早く寝かせて一人の時間を持ちたい。
そんな感じの日常になっていきました。
一人の時間を持つことが私のリフレッシュになっていました。
超過干渉
ですから、息子にはどんどん口うるさくなっていきました。
朝起きた瞬間から
「早く着替えなさい」
「早く食べなさい」
「歯を磨いて顔を洗いなさい」
「学校の準備はできてるの?」
「忘れ物ない?」
帰ってきてからは
「宿題はしてる?」
「明日の準備はできた?」
「ご飯食べて早くお風呂に入って寝なさい」
息子が何か話しかけてきても、顔を向けてゆっくり聞いてやることもせず
耳は傾けているけど、返事は適当
みたいな感じになってしまっていました。
制御できない怒りの感情
しかも、私のこの一連の流れの中で息子が例えば味噌汁をこぼしたりすると
「もう!なんでこぼすの!ちゃんと器をもたないからでしょ!
そこをどきなさい!早く拭かないと汚れが落ちないでしょ!いい加減にして!」
といった具合に、息子がやけどしたりしていないかということよりも
私の手間がかかることに腹を立てて感情的に怒るということが増えていきました。
休日も「るろうに剣心」が好きで
おもちゃの刀を振り回して遊んでいた息子が
テーブルにセッティングしていた食べ物をひっくり返してしまったことがありました。
その時の私は我を忘れて怒鳴り散らし
息子が大事にしていたおもちゃの刀をバキバキにへし折って
泣きわめく息子に
「あんたの顔なんかみたくない。あっち行って!」
そう言って手をあげてしまっていました。
児相に通報される
よほど大きな怒鳴り声をあげていたのでしょう。
泣き止まない息子を心配した誰かが児童相談所に通報したようで
様子を見に来られたほどでした。
それでも私は虐待なんかしていない
そう思っていました。
今思い返すと、十分虐待ですよね…
この瞬間的に沸きあがる制御不能なほどの怒りはどこからくるのか…
私は祖母のコピー
当時はわかりませんでしたが、
実は、この怒り方、祖母と全く同じだったんです。
私は祖母に育てられてきたため、祖母と同じような子育てをしていたのです。
ですが、私には祖母に可愛がってもらった記憶しかありません。
怒られていた記憶があまりないのです。
「お姉ちゃん、おばあちゃんと同じ怒り方するな」
と妹に言われてハッとしました。
おばあちゃんにどんなふうに毎日育てられていたのかを
妹に聞かないとわからないくらい
私にとってそれは当たり前すぎた日常だったのです。
負の世代間連鎖
そう言われてみると確かに手の指にお灸を据えられた跡が残っています。
幼すぎて覚えていないのか
あまりに怖すぎて記憶を封じてしまっているのかわかりませんが
ある程度の体罰は受けていたのかもしれません。
中学生か高校生の時にも
祖母にちょっと反抗的な態度をとったら
怒り狂った祖母が私の髪の毛を引っ張りながら私を引きづりまわし
私が謝るまでバンバン叩かれたことがあったのを思い出しました。
これも世代間連鎖の一つですね。
私は祖母のコピーになってしまっていたから
息子に対しても無意識に私が祖母にされてきたようなことをしていたんです。
恐ろしい話ですよね。
息子の不登校/地獄の始まり
息子の異変
息子は中学受験を経て中高一貫校へ進学しました。
夏休みに入るころから息子の様子に違和感を感じ始めました。
部活や習い事に行った振りをしてゲームセンターに行っていたり
ゲームセンターで遊ぶお金欲しさに私の財布からお金を盗っていくこともありました。
そして3学期に入ってすぐに体調を崩して学校を休んだことを皮切りに
息子の登校しぶりが始まりました。
完全に間違えていた初期対応
なんとか学校に登校させなければと考えた私は息子に学校に行きたくない理由を問い質し
ひとつひとつ学校に行けない理由を担任の先生の協力も仰ぎながらつぶしていきました。
学校に行けない理由を全部無くしても息子は学校に行きたくないの一点張りです。
無理やり車に乗せ登校させる日々が始まりました。
毎朝玄関に嫌がる息子を引きづりだし、靴を履かせながら罵声を浴びせ
「情けないことばかり言うな!学校ぐらい行けるやろ!
母さんなんかクラス中の女子から1年間無視され続けても学校行っとったわ!」
などと怒鳴り散らしながら嫌がる息子を追い立てていました。
そのせいで仕事に遅れて行ったり
仕事中に1時間ほど抜けさせてもらって息子を迎えに行ったり
仕事を早くきりあげたり…
毎日のように職場の周りの人たちに迷惑をかけていることが苦痛で仕方ありませんでした。
息子よりも世間体
自宅に帰って息子の顔を見ると本当にイライラしました。
この子のせいで私まで職場で肩身の狭い思いをしている。
なんで私がこんな思いをしないといけないの?
私は必死でこの子を育ててきたのに
なんでこの子は私を苦しめるの?
もういい加減にしてほしい!
ずっと心の中でこんなことを叫んでいました。
2年生になると5月頃から別室登校が認められたこともあり
一人で登校してくれるようになりました。
でも、そんな日々も長くは続きませんでした。
2学期に入ると間もなく息子は登校した振りをして
私が出勤した後自宅に帰るという行動を繰り返すようになりました。
一人で登校していると途中で行きたくなくなってしまうというので
私も息子と同じ時間に家を出て
息子の自転車の後ろをついて行き
息子が校門をくぐるのを見届けてから職場に行く
そんなことを2ヶ月続けました。
距離にすると息子の学校までが約5㎞、そこから職場までが約3㎞
合計約8㎞もの距離を毎朝自転車で走行していたのです。
毎日、もうクタクタでした。
そこまでしてでも息子を学校にいかせなければ私がバカにされるそう感じていました。
”私は親としてこんなに頑張っている”と周りに認めてほしい気持ちもありました。
罪悪感にさいなまれる日々
ある日仕事を終えて帰宅すると息子がいません。
「俺は生きている価値はない。今まで育ててくれてありがとう。」
そんなメモがありました。
慌てて周辺を探し回り駐車場で寒空の中うずくまっている息子を見つけました。
そのときの息子の様子を見て初めて自分の愚かさに気づきました。
息子の苦しみを理解してやろうともせず
自分が世間からどう見られるかばかりを気にしていた最低の母親だったことに気がつきました。
自分が困るからと超過干渉になり
息子を心配していると口では言いながらコントロールしようとしていたのです。
息子を自分の奴隷のように扱っていたのです。
『毒親』
こんな言葉、自分とは無縁だと思っていましたが
息子に対しての私の接し方は正に毒親そのものでした。
私は罪悪感でいっぱいになりました。
子育ては親育て/幸せへの階段
踏み出した大きな一歩
事ここに至り、私は初めてスクールカウンセラーを頼りました。
自分のことは何でも自分で解決してきたという自負のある私にとって
誰かを頼るということは
本当に清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気がいることでした。
この新しい一歩は息子にとっては正解だったようで、
息子はスクールカウンセラーとの時間を楽しんでいる様子でした。
壊れていく心
しかし、私の心はどんどん疲弊していきました。
カウンセラーに話を聞いてもらってもその時だけ楽になったように思うだけで
それでどうすればいいの?
結局私が我慢すればいいってこと?
と疑問ばかりが残ってしまう。
そのうち自分のメンタルダウンが近いことを自覚できるくらい
体が動いてくれなくなっていました。
このままでは親子で共倒れしてしまう。
私が倒れてしまっては元も子もないと思い解決策を探し始めました。
心療内科や精神科でお薬を処方してもらう対処療法では根本解決はできない。
だからこそ根本的にこの問題を解決できる方法を見つけなければ意味がないと考えていました。
運命を変えたアメリカ最先端心理メソッド×古神道の教え
そんなときに、ふと私の目に飛び込んできたのが
その後の私の運命を大きく変えることになる
アメリカ最先端心理メソッドと古神道の教えを融合させた心理セラピーでした。
直感で「これだ!」と感じました。
藁にも縋る思いでこのセラピーを受ける決断をしたのです。
自分自身と向き合う日々
セラピーを受け始めて間もなく
私が息子のためにと思い精一杯やってきたことは
すべて息子の生きる力、成長を奪う行為だったことに気がつきました。
自分がどれほど毒親化していたのかを思い知ることになりました。
真剣に自分と向き合う日々が始まりました。
すると自分がいかに自分自身の感情を無視し続けて生きてきたのかが明らかになっていきました。
解き明かされていく波乱の人生の根本原因
自分の意思で進学先や就職先、結婚相手を決めてきたつもりが
この高校なら
この就職先なら
この人との結婚なら
両親は反対しないだろう
と無意識に両親の判断基準に基づいた選択を
ずっとし続けてきただけの人生だったのです。
私にずっと付きまとっていた
孤独感や生きづらさなどの問題のすべては
両親及び祖母との関係
私が生まれ育ってきた環境において刷り込まれてきた思考癖や観念
過去のトラウマ
隠し続けてきたネガティブな感情
などによるものでした。
そして息子の不登校という大きな問題を引き寄せていたのは
他ならぬ自分自身だということがわかりました。
負の連鎖は私が止める
自分自身に問題などないと思っていたこと自体が間違いだったのです。
私自身が両親や祖父母から受け継いでしまった負の連鎖の罠に陥ってしまっていたのです。
”この不幸の連鎖は私で止める!”
そう決意しました。
心が癒されていくと…
自分自身と向き合い続けて潜在意識に閉じ込めていた感情を癒していくと
何かを意識することなく
自然に過干渉である自分
罪悪感でいっぱいだった自分
孤独感、承認欲求
手放した方がいい観念や思考癖
などを解消することができていました。
すると、不思議なことに
息子も元気を取り戻し
息子自身が自分の進路について考えて結論を出し
前向きに行動するようになりました。
私と息子の親子関係も
今は良好すぎるくらいで
息子と過ごす毎日が本当に幸せでかけがえのない時間になっています。
愛しい息子への感謝
息子が小さいときに私に何気なくこんなことを言いました。
「僕ね、ママを助けるために生まれてきたんだよ。」
その言葉どおり、息子は自分が不登校になることで私を救ってくれたのです。
”母さん、本来の母さんを取り戻して”と。
息子には感謝しかありません。
”私の子供として生まれてきてくれて本当にありがとう”
今の私が心から息子に伝えた言葉です。
魂の目的/自分自身を愛で満たしパワースポットになる
自分の本質がわかってくるようになると
自分が生まれてきた目的のようなものを感じられるようになりました。
私の場合は、自由になること。
そして、微力ながら私自身がパワースポットのような存在になり
私と関わる人が幸せを感じられるようになっていくことで
少しずつ幸せの波動を広げていきたい
という思いが強くなりました。
私自身の波乱万丈な半生はこのためにあったと確信しています。
お伝えしたいこと/理想の未来を実現するために
最後に一番大事なことをお伝えします。
あなたはもしかしたら、自分を責めていたり、全部自分が悪いと思い込んでいたりして
罪悪感でいっぱいになっているかもしれませんね。
ですが、あなたは悪くありません!
誰も悪くないのです。
ただ、先祖代々からの不幸の連鎖が続いているだけなんです。
でも一つだけ言えることは、
あなたの人生を変えられるのは「あなただけ」です!
他の誰にもできません。
私はほんの少しあなたに寄り添い伴走させてもらうだけです。
セラピーやカウンセリングを受けることは大変勇気のいることだと思います。
私もそうでした。
でも、思い切ってセラピーに申し込まなければ、今自分は廃人同然だったかもしれません。
息子もひきこもったままだったかもしれません。
勇気を出して踏み出す一歩が
あなたの未来を大きく変化させ
理想の未来を実現させることができるのです。
最後まで長文をお読みいただきありがとうございました。
私のこれまでの人生が少しでもあなたのお悩み解決のお役に立てれば幸いです。
もし、セラピーを受けてみたいと迷われている方は
是非一度、私との相性を確認するという意味でも
お試し個別セッションに申し込まれてみてくださいね。
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