プロフィール

はじめまして。
親子関係専門の心理セラピスト 下元深登梨(しももとみどり)です。

目の前の現実は「結果」であり、そこに至るプロセスの先に根本原因がある
だから、現実は自分が創っている・・・

この意味わかりますか?

私はこのことに気づけるようになるまで、ずっと“誰か”や“何か”のせいでうまくいかないと思っていました。

元夫との関係子どもの不登校、そして、気づけば自分も“毒親”になっていたことなど…

いま振り返ると、その出来事のひとつひとつが、私の中にあった“思い込み”や、無意識に身につけた考え方のパターンから生まれていたのだとわかります。

外の世界を変えようと一生懸命に頑張ってもうまくいかなかったのは、自分の内側の“設定”を変える必要があったからです。

どうしてこんなにも生きづらかったのか?
なぜ、大切な人との関係がうまくいかなかったのか?

その答えを探すように、私は少しずつ自分の心と向き合いました。

親子関係の問題をきっかけに、自分自身を癒し、現実を変えていくことができた経験を、お話しすることで、あなたのお悩み解決のヒントになることがあるかもしれません。

よろしければ、私のこれまでの歩みをここからご覧いただければと思います。

詳しいプロフィール

私はずっと”なぜ普通の平凡な人生を歩めないのだろう”と思いながら生きてきました。

私が幼い頃に望んでいた人生は、20代前半で結婚して夫を支えながら子育てをし、温かい幸せな家庭を築く良妻賢母になることでした。

でも、実際の私の人生はなぜか波乱万丈で、自分の理想とは全く違うものになってしまいました。


私の半生を動画(約7分)にしましたので、こちらも併せてご覧ください。

両親との距離と妹への嫉妬を感じていた幼少期

年子の妹が生まれたことで、私は一歳の頃から同居していた祖父母に育てられました。
そのため、両親と枕を並べて一緒に眠った記憶がありません。
両親に甘える妹の姿を見つめながら、胸の奥に寂しさと小さな怒りが生まれていきました。

本当は両親に甘えたい・・・
でも、その気持ちをうまく表現できず、妹に意地悪をしては叱られる。
そんな日々を繰り返していました。

そして、いつの間にか、「私はどうでもいい子なんだ」と感じるようになっていったのです。

さらに、私が生まれたとき、祖父が本当は男の子を望んでいたことを知り
男の子でなければ愛されない」と思い込むようになりました。

その思い込みは、女性としての自分を否定し、“女の子らしさ”を封印して生きるきっかけになりました。
この幼少期の経験が、生きづらさの原点になっていきました。

いじめと孤独の中で強がっていた学生時代

小学校では、理由もわからないまま理不尽ないじめにあいました。

4年生の時、クラスの女の子全員から1年間ずっと無視され続け、ついたあだ名は「ネクラ」。

担任の先生も見て見ぬふりで、「誰も助けてくれない」と感じたあの日の胸の痛みは、今でもはっきりと覚えています。

家庭の中でも、私のやりたいことや思いを話しても、父は理由を聞くこともなく、頭ごなしに反対し、母もその意見に従うだけでした。

高校生になっても、厳しい門限とお小遣いのない生活の中で、友達と自由に遊ぶことも許されず、まるで世界の中で自分だけが置き去りになっているような気がして孤独を感じていました。

それでも泣くことはできず、“独りでも大丈夫”と自分に言い聞かせながら、強がることで心のバランスを保っていたように思います

そしていつの間にか、苦しい気持ちを話したところで、「どうせ誰にも分かってもらえない」と、次第に心を閉ざすことが当たり前のように癖になっていきました。

この頃から私は、傷つかないために“強い女の仮面”をかぶるようになっていったのです。

弱さを見せてはいけない!と思い込んでいた公務員時代

高校を卒業してから、公務員として働き始めました。
男性が多い職場の中で、「しっかりしなければ」「泣いてはいけない」と自分に言い聞かせながら、与えられた仕事を一つひとつこなしていました。

時には厳しい言葉をかけられることもありましたが、「負けたくない」「認められたい」という思いで踏ん張っていたのだと思います。
本当は助けてほしい場面でも、「大丈夫です」と強がってしまう。
弱音を吐くことは、自分を否定するようで怖かったのです。

いつの間にか私は、感情を表に出さず、人に頼ることも甘えることもできない「クールな人」と見られるようになっていました。
でも、その内側ではいつも孤独と緊張を抱えていました。

素直に甘えたり、感情を表に出したりできる女性を見ると、どこか苛立ちや羨ましさを感じていました。
その裏には、「人に頼ってはいけない」という思い込みが深く根を張っていたのだと思います。

「私さえ我慢すれば」と思い込んでいた結婚生活

職場では強い女を演じていた私ですが、パートナーに対しては違いました。

「嫌われたらどうしよう」
「本当に私のことを好きなんだろうか?」
と、自己肯定感の低さも影響して、常に不安がつきまとう感じがありました。

見捨てられたら生きていけないような気もして、とにかく相手に嫌われないようにと、必要以上に頑張ってしまう・・・「尽くさなければ愛してもらえない」と思っていました。
そんな関係の延長線上に、結婚がありました。

結婚を機に、誰も知り合いのいない土地での生活が始まりました。

息子も授かり、これで私も幸せになれると思ったのも束の間でした。

夫は穏やかで優しい人でしたが、次第に金銭トラブルや嘘が重なり、夫婦の間に少しずつ亀裂が生まれていきました。
それでも私は「私さえ我慢すれば、家族はうまくいく」と信じていたのです。

多額の借金、裏切り、そして再び繰り返される嘘。
次第に幼い息子の前でケンカをくり返すようになりました。

そんなある日、夫とのケンカの最中に、たまたまバランスを崩して私が尻もちをつくというハプニングが起きました。

それを見た、まだ3歳の息子がわたしの目の前に立ち
「パパやめて!!!」
と泣き叫んだんです。

おそらく、私が夫に暴力をふるわれていると勘違いしたのでしょう。
小さな息子が私を守ろうとしたのです。

そんな息子を抱きしめながら思いました。

目の前で親がケンカをする姿を見続けながら成長するのは息子にとって果たしてよいことなのだろうか?

たとえ父親がいなくても息子に私の笑顔を向けてあげられる方がいいのでは?

“我慢すること”は家族を守ることではなく、結局、自分も息子も苦しめることなんだと、そのとき、ようやく気がつきました。

そして、息子が4歳になるころに離婚しました。

完璧な母親でいなければと頑張りすぎて自分を見失う

離婚後、私は「シングルマザーだからこそ、きちんと子育てをしなければ」と必死でした。
“母親としてダメだと思われたくない”
“しっかりしている母親に見られたい”
そんな気持ちがいつも心の奥にありました。

「早く、起きなさい」
「早く、食べなさい」
「早く、顔洗いなさい」
早く、早く、はやく・・・朝から晩までこの調子で、口をひらけば命令ばかりしていました。

息子が何を話しかけてきても
「なに?」
「それで?」
「ママいま、忙しいから」
と邪険に扱ってしまうことが多くなっていきました。

そして、ちょっとでも息子が私に逆らうと、ピシャリ!と手が出てしまったこともあったくらい、毎日イライラしていました。

仕事・家事・育児のすべてを一人でこなす生活は、常に時間に追われていました。
やがて心のゆとりもなくしていった私は、息子に対して不機嫌な態度しかとれなくなっていたのです。

このように、息子をコントロールしようとしていた自分に気づかないまま、水面下で毒親化が進んでいきました。

息子の不登校をきっかけに地獄のような日々を過ごす

息子は中学受験を経て、私立の中高一貫校へ進学しました。
小学生の頃は成績もよく、スポーツも得意で、クラスの中心にいるような子でした。
だからこそ、中学1年生の夏休み前から見えはじめた小さな違和感にも、「思春期だからかな」くらいにしか思っていませんでした。

部活を休んだり、まっすぐ家に戻らず寄り道をしたり、私の財布からお金が減っていたり・・・
気になってはいましたが、深刻には受けとめていませんでした。

しかし、3学期に入ったある朝、息子は体調不良で学校を休みました。
その日を境に、息子は学校へ行けなくなりました。

私は混乱し、焦り、そして恐れました。

「なぜ行けないの?」
「どうして?」
「どうにかして学校に行かせなければ!」

そう思うあまり、息子の気持ちに寄り添うのではなく、“母親として間違っていると思われたくない”その思いばかりが強くなっていきました。

嫌がる息子を無理やり車に乗せて登校させたこともあります。
玄関で泣き叫ぶ息子に、
「情けない!」
「行きなさい!!」
そんな言葉を投げつけてしまったこともありました。

今思えば、してはいけないことばかりでした。
でも当時は、それが“正しい母親の行動”だと信じていたのです。

息子が別室登校になり、なんとか一人で通えるようになった時期もありましたが、それも長くは続きませんでした。

学校に行くふりをして、私が出勤したあとにこっそり家へ戻っていることが増え、そのたびに胸がざわつきました。

母親として“隣近所や学校の先生たちにどう見られているのか?”ばかりが気になっていました。

毎朝、息子の自転車の後ろを必死で追いかけて、校門に入るのを見届けてから職場へ向かっていた時期もありました。
「ここまでして頑張っている私」を誰かに認めてほしかったのだと思います。

そんなある日、外出先から帰ると、息子の姿がありませんでした。
机の上には、一枚のメモだけが残されていました。

「俺なんか生きている価値はない。今まで育ててくれてありがとう。」

その文字を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、息がうまく吸えないほどの恐怖が押し寄せました。

「どうしよう…」
「お願いだから無事でいて…」
「私が悪かった。神さま、どうか…」

震える手でメモを握りしめながら、走り回って息子を探しました。

どれくらい探したのか覚えていません。
気がつけば夕方になっていました。

帰宅して、なんとなく駐車場に目を向けたとき、車の影でうずくまっている息子の姿が見えました。

「…いた」
その瞬間、全身の力が抜けるようでした。

泣きそうになるのをこらえて抱きしめると、息子は小さな声でこう言いました。

「母さん、ごめん。俺、死ぬ勇気もなかったわ。」

言葉が出ませんでした。
ただ、「アホか…」とひとこと言うのが精一杯でした。

そのとき初めて、私は自分がどれほど息子を追い詰めていたのかを痛いほど思い知りました。

息子を“見ているつもり”で、見ていなかった。
息子を“守っているつもり”で、本当は自分の不安や世間体を守ろうとしていただけでした。

あの瞬間の罪悪感は、今でも胸の奥に深く残っています。

でもそれは、私が自分の内側と向き合い始めるための、大きな転機でもありました。

変わらなければいけないのは私だった

「もう一人では無理だ…」
ようやく、事ここに至り、専門家を頼ろうと決心しました。

清水の舞台から飛び降りるような思いで、まずスクールカウンセラーに相談しました。
弱さを見せることが怖くてたまらなかった私が、誰かに頼ったのは人生で初めてのことでした。

息子は幸いスクールカウンセラーとの時間を安心して過ごしているようで、その姿を見て少しだけ救われる気持ちになりました。

けれど私自身の心は、どんどん疲れ果てていきました。

スクールカウンセラーに話を聞いてもらうと、そのときだけは少し楽になります。
でも家に帰ると、また同じ不安が押し寄せるのです。

“結局、私はどうすればいいの?”
“我慢し続けるしかないの?”

そんな疑問と虚しさが、心に重く残りました。

次第に、私の心も限界に近づいていきました。
体が動かない日が増え、頭では理解できても、感情がついてこない。

「このままでは、親子で共倒れしてしまう──」

そう感じたとき、ようやく気づきました。

変わらなければならないのは、息子ではなく、私自身なのだと。

そこから私は、心理学の本を読みあさり、SNSでも「心」についての情報を探すようになりました。

けれど、知識が増えても、それをどう実践すればいいのか?という壁にぶつかりました。
頭で理解しても、実際の親子関係にどう落とし込めばいいのかがわからない、そんなもどかしさだけが残りました。

それでも私は、“きっと根本的に変われる方法があるはず”そう信じて探し続けました。

人生を大きく動かすセラピーとの出会い

あるとき、ふと目に飛び込んできた“アメリカ最先端心理セラピー”という言葉。

なぜかその文字が、当時の私の心に強く響きました。
導かれるように個別相談を受けてみると、そこで言われたことは、いままで聞いたことのない話ばかりでした。

・目の前の現実は自分が創っている
・自分が変われば、周りも変わる
・変わるべきは息子ではなく、自分
・潜在意識の感情を癒すことが必要

正直、最初は意味がわかりませんでした。
「自分が現実を創っている? そんなはずない」
そんな反発に近い気持ちもありました。

それでも、直感だけは “これだ” と強く反応しました。

半信半疑のまま、私は思い切ってそのセラピーを受けることにしました。

そして、そこで初めて気づいたことは

・アダルトチルドレンだったこと
・愛着に問題があったこと
・両親も祖父母も毒親で、私も同じように毒親化していたこと

セラピーで自分の内側と向き合っていくうちに、これまで気づけなかったことが、少しずつ明らかになっていきました。

私は、自分の人生を、自分の意思で選んできたと思っていました。

でも実際は、両親の価値観を無意識に優先して、進学先も、就職先も、結婚相手でさえも選んできただけでした。

そんな自分の“根っこ”に気づいたとき、私は初めて心の底から思いました。

「この負の連鎖は、私で終わらせる。」

そう決意すると、潜在意識に押し込めていた感情も、思考の癖も、不要な固定観念もひとつずつ自然にほどけていきました。

すると、不思議なことに、私が変わるにつれて息子も変わり始めました。
不登校を克服し、自分の進路について前向きに考え、やりたいことに挑戦するようになりました。親子関係も、あの頃の面影がないほど穏やかで温かいものになりました。

そして、息子がまだ小さかったころ、はっきりと私に言った言葉を思い出しました。

「僕ね、ママを助けるために生まれてきたんだよ。」

その言葉どおり、息子は“不登校”という形で私に気づきを与え、私を救ってくれたのだと思います。

“本来の自分を取り戻して” と、息子は無意識のうちに私に伝えてくれていたのかもしれません。

いま心から言えます。
「私のところに生まれてきてくれて、本当にありがとう。」

この深い感謝の気持ちは、今の私の人生の宝物です。

自分らしく生きることを決めて歩み始める

心の内側を癒していくうちに、私はようやく“本当の自分”を取り戻し始めました。
息子との関係も穏やかになり、家の中に安心できる空気が戻ってきました。
外側が変わったのではなく、私の内側が整ったことで見える世界が変わったのです。

そして気づきました。
私は「自由になるため」に生まれてきたのだと。

微力でも、関わる人の心に小さな光を届けたい──そう思うようになりました。

そして、“パワースポットのようなマインドでいられる人”が増えれば、その周りにも穏やかさが広がり、社会全体がもっと優しい場所になる。
そんな未来のビジョンを描くようになりました。

私と同じように悩まれている方々のお役に立ちたい‼という思いが強くなりました。
そして私は、思い切って公務員という職業を手放し、現在は心理セラピストとして活動しています。

理想の未来を実現するためにお伝えしたいこと

どうか、これ以上ご自分を責めないでください。
あなたが苦しんできたのには、ちゃんと理由があります。

“あなたが悪い” のではなく、ただ、長いあいだ続いてきた心のパターンがあなたを苦しくさせているだけなのです。

そのことに気づけただけでも、あなたの心にはすでに小さな変化が生まれています。

もし今、不安や迷いがあっても大丈夫です。
その気持ちのままでも、一歩ずつ前に進んでいけます。

セラピーやカウンセリングを受けることは、とても勇気のいることだと思います。

実際、私自身も、初めてカウンセリングを受けるときには、かなり勇気がいりました。
でも、あの一歩がなければ、私は今ごろ、心が壊れていたかもしれません。
そして息子も、今のように前を向いて歩き出すことができなかったかもしれません。

最後に──。
未来を選び取る力は、いつだってあなたの中にあります。
その小さな決意が、これからの人生を静かに、確かに変えていきます。

もうひとりでがんばらないでくださいね。


最後まで長文をお読みいただきありがとうございました。
私のこれまでの人生が少しでもあなたのお悩み解決のお役に立てれば幸いです。

もし、セラピーを受けてみたいと迷われている方は、ぜひ一度、私との相性を確認するという意味でもお試しカウンセリングに申し込まれてみてくださいね。




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